こんにちは!

Star Brain Academy の津久井(つくい)です。

 

前回から始めた「キョウイクについて考える」。

 

今回は「新受験」と「旧受験」の境目に

ついて考えていきます。

 

 

タイトルには「新受験」「旧受験」とありますが、

ここでは受験的な変化をお伝えするのではなく

受験と教育の関係性をお話ししていこうと思います。

 


目次(クリックすると該当場所に飛びます)

 

私(津久井)は、学部を卒業したあと

教育学部で「科目等履修生」として勉強しました。

その時に感じたことからお話を初めていこうと思います。

 

 

教職員育成の現場で語られていること

 

 

先程お話ししましたが

私は科目等履修生として

教育学部で2年ほど学びました

 

卒業した学部の関係で

今教えている英語教師ではなく

社会科教師として、、、

 

実は私は暗記が大の苦手で

受験期でも英単語など全く暗記しないという

暴挙にでておりました。

 

おかげで「考える・予想する・工夫する」といった

思考訓練はできたと思っていますが、

教えている生徒には「単語知らないと読めないよ〜」と

日々脅しています(笑)

 

さて、いざ教職課程に入ってみると

社会の先生にしかなれません!

 

「困ったぞ、、、、」

 

受験は「地理・政経」で乗り切って

「日本史・世界史」といった暗記科目は

全くといっていいほど触れていないのです。

 

とは言うもののどうにかなるもので

歴史関連の本を読み漁り

塾講師として「歴史」を小中生に教えたりと

それなりに楽しんだ記憶があります。

(流石に大学受験は教えませんでしたが)

 

ここでは、科目学習法・教授法だけでなく

「心理学」「教育理論」など

多くのことを学習できたと思います。

 

その中に「指導要領」の授業がありました。

文科省が発行しているもので

原則全ての授業は指導要領に従って構成されます。

 

ほとんどの内容は忘れてしまいましたが(笑)

今でも朧げながら覚えている文言があります。

 

「お腹が空いている人がいた時に
その人に魚をあげるのではなく
魚のとり方を教えてあげること、
これが教育の本質だ。」

 

当時は「そりゃそうだよな」くらいの意識でしたが

ある時、保護者の方と面談をしているときに

塾長の建島が同じようなことを口にしていました。

 

 

建島が教職をとっていた時代は数十年前なので

その頃からずっと語られているのでしょう。

 

しかし、連綿と語られているこの言葉

果たして今の教育でどれほどの人が意識しているのでしょうか

 

今の学校の授業を見ていると

ファスト・フードならぬ

ファスト・スタディとも言える環境になっています。

 

1つの英文を読めば、すぐ次の英文にすすむ。

毎週の課題とテストに忙殺されて

日々を消費しているだけのように思えてしまいます。

 

止まって考える暇も機会もなく

ただただ時間が流れていきます。

 

結果、子どもたちの頭の中に残るのは

「なんか、いっぱいやった」という経験だけで

魚のとり方は身についてはいません。

 

これから先の教育には

タスクをこなすことではなく

課題を発見して解決する力が必要です。

(このあたりは前回のブログにて詳述しています)

 

もう一度教育の原点に戻って、魚のとり方を

考える時期にきているのだなと思います。

 

新しい時代の学び:STE(A)M教育

 

 

最近教育関連で、次の言葉を頻繁に目にすることが増えました。

 

これからはSTE(A)M教育の時代だ

 

ビジネス書や雑誌の方が目にする機会は多いかもしません。

 

ご存知の方も多いかもしれませんが、

STEM(ステム)教育は次の単語の頭文字をとっています。

 

S:Science(科学)

T:Technology(技術)

E:Engineering(工学)

M:Mathematics(数学)

 

ふむふむ、ふむ、、ふ、む??

 

S(科学)とM(数学)はわかるのですが、

T(技術)とE(工学)の違いが不明、、、

 

ということで色々と調べてみた結果、

次の説明が一番わかりやすいかと思います。

 

日本では「技術」と「工学」の区別は明確ではないが、技術はツールをつくることと、工学はそのツールを活かす方法と考えればい。(成毛眞『AI時代の子育て戦略』より)

 

科学で真理・理論を追求し

技術でその応用のツールを考案し

工学で現実に適用する。

その土台として数学がある。

 

といった理解なのでしょうか。

 

STEM教育で有名なものとしては

プログラミング教育があります。

 

マインクラフト(https://www.minecraft.net/ja-jp/)や

Scratch(https://scratch.mit.edu/)に代表されるように

自分で考えながら世界を構築するプログラム

すでに世に出ています。

(以前、『マツコの知らない世界』というTV番組で

マインクラフト特集をしていました。

https://www.tbs.co.jp/matsuko-sekai/archive/202012152/

 

プログラミングは、想像力もさることながら

論理的な思考力と忍耐力(試行錯誤)が必要とされます。

 

自分がイメージした世界の構成や動きを

どのような命令(コード)を打ち込めば実現できるかを

ゲーム感覚で学べる良い手段と思います。

 

私としては、ここに A(Art:芸術)を加えた

STEAM(スティーム)教育が重要と考えていますが、

この話は別の機会に譲りたいと思います。

 

 

「教える・育てる」を疑うこと

 

 

今回は1つ目で「教育の本質」を

2つ目は「STEM教育」を紹介しました。

 

STEM教育には大きな可能性がありますが

問題となるのは、「教育の本質」が実践されるかどうかです。

 

STEM教育は、論理的思考・創造性・忍耐力と

重要な要素が盛りだくさんなのですが、

ァスト・スタディとは相反するものです。

 

仮に小学生で楽しくSTEM教育を学んだところで

中学・高校に進み、受験が近づくにつれ

いつの間にかタスク型の ” お勉強 ” に

なってしまう可能性もあります。

 

学校でプログラミングの課題が出たとしても

YouTubeやネットで調べれば

その課題の” 答え “は探せてしまいます。

 

そうすると、” 魚 ” は探せても

” 魚の探し方 ” はいつまでたっても身につきません。

 

 

「教育」の「教」と「育」を読んでください。

 

と問えば、当然のごとく

 

「教える」「育てる」

 

と返ってきます。

 

しかし、「教える」「育てる」の背景には

必然的に「あるべき姿」が存在します。

 

その「あるべき姿」が

「良い大学に合格する」ことだったり

「大人の望む “良い” 子になる」ことだと

途端に教育はマイナスの影響を及ぼします。

 

ともすれば、先ほど挙げたSTE(A)M教育も

「STE(A)Mができればスゴい」となると

その意味を失ってしまいます。

 

中国古代の歴史書『書経』には

「教学半(教うるは学ぶの半ば(なかば)なり)」

という言葉があります。

 

また、「親は無くとも子は育つ」の言葉のように

「育」は「育つ」とも読めます。

 

それまで勉強が進まなかった生徒でも

何かのきっかけでスイッチが入ると

驚くほど勉強する場面に何度も出くわしました。

 

ちょっとしたキッカケがあれば

子どもは「育ってくれる」ものなのでしょう。

 

「教える」ことは「教わる(学ぶ)」ことに繋がります。

人は、時に「育て」、時に「育つ」ものです。

 

「教育」を「教え・育てる」という一方向ではなく

上記のように双方向で捉えるチャンスとして使えるように

「新受験」が働いてくれれば良いなと切に願っています。

 

今回は、新受験に移行したことを踏まえ

「教育」について考えてみました。

 

当面は「新受験元年」の受験問題を分析する予定なので

シリーズ次回作はしばらく先になります。